行事・芸術・その他17年9月迄
JR黄檗駅集合。
南から北まで電車、バス、徒歩で移動しました。終了後はもちろん飲み会です。
参拝した箇所と順路。
黄檗山万福寺 布袋尊➡東寺(教王護国寺) 毘沙門天➡妙円寺 松ケ崎大黒天➡
赤山禅院 福禄寿➡行願寺(革堂) 寿老人➡恵比寿神社 えびす神➡六波羅蜜寺 弁財天


集合:JR黄檗駅9時スタート。

①万福寺

布袋尊

②東寺(教王護国寺) 毘沙門天。雨の中、電車で京都駅まで移動&徒歩。

③妙円寺 松ケ崎大黒天。地下鉄で松ヶ崎まで移動&徒歩。

④赤山禅院 福禄寿。徒歩で修学院まで移動。


⑤行願寺(革堂) 寿老人。バスで河原町丸太町まで移動。


⑥恵比寿神社 えびす神。徒歩で移動。

⑦六波羅蜜寺 弁財天。徒歩で移動。終了:16時。

一人は高校の同窓生で毎年、洋画部門に、後一人は元勤務先の先輩で日本画部門で
入選されました。
☆日展:日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書。
☆場所:京都市美術館
☆期間:28.12.10~29.1.15
Wild rose、小川 尊一 岡山県 (洋画部門、会員)


桃太郎伝説で有名な犬島(岡山市)には、銅の精錬所や発電所があった。
銅が付着した黒褐色のカラミ煉瓦が美しい所だ。その中で野バラがひときわ
綺麗に咲いていたという。
さらにアトリエの庭にある大きな野バラもいつも綺麗な花を咲かせる。
そこで犬島のカラミ煉瓦と女性モデル、野バラを組み合わせて表現したのが
本作である。
小川は「今回偶然出会ったモデルは、ファッションセンスとプロポーションが
優れていて良かった」と語る。陰影は引き締まっていて、一種彫刻的ともいえる
韻律を醸し出している。
葉を落とした野バラのつるにスズメを配した設定が絶妙な陰影の抑揚を付け、
繊細な情緒を感じさせる。鳥のさえずる喧騒が聞こえてくるようなロマンのある
空間で、絵の即興詩といえるだろう。 (6月17日大分合同新聞夕刊より。)
安らぎ、開田 新三 京都府 (日本画部門)。200号の大作です。


花が終わり葉も枯れた藤の後ろに団地ベランダの窓が見えます。
夕方の落ち着いた静かな冬の風情です。何気ない風景が丁寧に描かれています。
・・・・私の感想です。
会社を退職されてから画に没頭されました。
素質もあったようですが退職してからめきめき腕を上げられました。
会場の京都市美術館です。



でも挑戦する勇気は素晴らしい




今日は元勤務先で頂いた書籍を紹介します。この書籍は会社のPR誌に連載されとものを
冊子にしたものです。
書 籍 名:空と大地、文・写真:多胡光純

筆者は現在、加茂(京都府)在住です。写真は書籍掲載の恭仁京(加茂)近辺。

多胡光純・・・カメラマン、モーターパラグライダー。1974年、東京生まれ。

学生時代に探検部に所属。マッケンジー河、ユーコン河など北米を舞台に活動。
卒業後も撮影で北米を旅行。2001年のセロン川の旅を機に、02年よりモーター
パラグライダーの修行開始。03年マッケンジー河の空撮行を皮切りに、写真と映像に
よる空撮活動をおこなっている。
テーマは「旅した大地を空から望む」。
主な活動に、
・「天空の旅人 紅葉列島を飛ぶ」(NHKアーカイブス収蔵)
・「九十九島を飛ぶ」(佐世保市)
・「麗水万博 日本館展示映像」(経済産業省)
・「種差海岸インフォメーションセンター」(環境省)など。
近くに行かれる機会がありましたらお立ち寄りください。
期日:3月29日(火)~4月3日(日)
場所:生駒市「美楽来」

芸術会館 美楽来 は下記を参照ください。
http://www.city.ikoma.lg.jp/0000002392.html
開催しています。
四天王をかたどった巨大な人形(大立山)を引いて宮跡内を練るそうです。
モデルは「青森ねぶた祭」で観光客が減る真冬の集客を狙って3万人の来場を見込んでいるとか。
しかし、奈良とゆかりが薄いねぶたに違和感を持っている人も多いようで、県議会や市民団体など
から巨額の公金投入(2億円)への疑問も上がっているそうです。
4基の大立山は、マスコットキャラクター「せんとくん」を手掛けた彫刻家の籔内佐斗司さんが、
和歌山県・金剛峯寺の四天王立像をモチーフにデザインして高さは人形が約3.5メートル、山車を
合わせると約7メートルのプラスチック製で内側から光を照らす仕組みのようです。
「美楽来」で開催されます。近くに行かれる機会がありましたらお立ち寄りください。

芸術会館 美楽来 は下記を参照ください。
http://www.city.ikoma.lg.jp/0000002392.html
日本も変わったでしょう。
「山田方谷」 <出典:ウィキペディア>

江戸時代。
山田方谷は備中松山藩領で生まれ、京都で陽明学を学びました。
方谷は松山藩の財政の建て直しに貢献し、幕末の混乱期には苦渋の決断により藩を滅亡
から回避させることに成功しました。明治維新後は多くの招聘をすべて断り、一民間教育者
として生涯を送りました。
松山藩の藩政改革
方谷は自らが説く「理財論」および「擬対策」を実践して藩政改革を成功させました。
理財論は方谷の経済論で漢の時代の董中舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」
の考え方に基づいています。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、
その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげ
られない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつ
けていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなると言う説です。
擬態策は方谷の政治論で天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢を
すれば、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることと説いています。
この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行いました。
1. 藩財政を内外に公開して、藩の実収入が年間1万9千石
にしかならないことを明らかにし債務の50年返済延期を
行った。(改革の成功で数年後には完済した。)
2. 大阪の蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米会
所の動向に左右されずに最も有利な市場で米や特産
品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米に
あてました。
3. 家臣に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの
生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受け
る事を禁じて発覚した場合には没収しました。
方谷自身の家計も率先して公開して賄賂を受けていない
ことを明らかにしました。
4. 多額の発行によって信用を失った藩札を回収し、公衆
の面前で焼き捨てました。代わりに新しい藩札を発行し
て藩に兌換を義務付けました。これによって藩札の流通
数が大幅に減少するとともに信用度が増して他国の商人
や資金も松山藩に流れるようになりました。
5. 領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコ、
茶、和紙、柚餅子などの特産品を開発して「撫育局」を
設置して専売制を導入しました。他藩の専売制とは逆に
生産者の利益を重視し、藩は後述の流通上の工夫によ
って利益が上げるようにしました。
6. 特産品を、中間手数料がかかる大坂を避け、藩所有の
艦船で直接江戸へ運び、藩邸の施設内で江戸や関東、
近辺の商人に直接販売しました。これによって、中間利
益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに
航海術を学ばせました。
7. 藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民
や町人出身でも藩士へ取立てました。
8. 桑や竹などの役に立つ植物を庭に植えさせ、更に道路
や河川・港湾などの公共工事を興し、貧しい領民を従事
させて現金収入を与えました。また、これによって交通
の安全や農業用水の灌漑も充実されました。
9. 目安箱を設置して、領民の提案を広く聞きました。
10. 犯罪取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社
会復帰を助けました。
11. 下級武士に対して屯田制を導入し、農地開発と並行し
て国境等の警備に当たらせました。
12. 「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を
導入し若手藩士と農民からの志願者による英国式軍隊を
整えました。 この軍制は長州藩の奇兵隊等の模範になり
ました。
方谷は反対意見を受けたもののあくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全
体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段
であるとして、この批判を一顧だにしなかった。(方谷は松山藩の執政の期間には加増を
辞退し、むしろ自分の財産を減らしている)。
これによって、松山藩(表高5万石)の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、
農村においても生活に困窮する者はいなくなったという。
他藩にはない大規模な藩政改革を行い、後の長州藩等の手本になるものもあり、
当時としては画期的な政策であった。
方谷は藩政改革を成功させた後、池田光政が設立した閑谷学校(日本最古の庶民学校)
を陽明学を教える閑谷精舎として再興しました。
・明治新政府は方谷の財政改革を高く評価して、三島中洲らを通じて出仕を求めたが、
領民達を救うためとはいえ、心ならずも主君を隠居に追い込んで勝手に降伏した
(注:参照)方谷に再仕官をする考えはなく、弟子の育成に生涯を捧げました。
・方谷の教えは三島中州の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることに
なった。他人を小人呼ばわりした三島中州に「世に小人無し。一切衆生みな愛すべし。」
と戒めたと言われています。
・安岡正篤は、この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚えると評価しています。
・学舎の隣家に住む一藩士が病没し、その妻が方谷宅の門を叩き父を亡くした7歳の
娘に母子家庭の娘と侮られぬよう、学問を教えて欲しいと願うと引き受けて男女の
別を気にする事無く、その才気ある娘を学舎に通わせ自ら教えました。
その娘は後に高梁で女子教育の普及を広めた福西志計子です。
年表
・1809年(文化6年) 5歳 新見藩の丸山松隠(儒家)塾で朱子学を学ぶ。
・1825年(文化8年) 21歳 名声が広まり藩主・板倉勝職から奨学金 (二人扶持)
いただく。
・1827年(文政10年)23歳 第1回京都遊学で寺島白鹿に学ぶ。
・1829年(文政12年)25歳 第2回京都遊学で寺島白鹿に学ぶ。遊学から戻り、
主から苗字帯刀を許される。藩校・有終館会頭(教授)に
抜擢される。
・1831年(天保2年) 27歳 第3回目の京都遊学で寺島白鹿に再度、学ぶ。
このとき、陽明学に出会う。
・1834年(天保5年) 30歳 江戸遊学(1月から2年半)で佐藤一斉の門下に入る。
このとき、佐久間象山と出会う。
・1836年(天保7年) 32歳 有終館に戻り指導する。「理財論」「擬対策」を書く。
・1838年(天保9年) 34歳 家塾「牛麓舎」を開校する。
・1844年(弘化元年) 40歳 世子の板倉勝静に入封する。
・1847年(弘化4年) 43歳 津山藩洋式砲術役・天野直人に砲術を学ぶ。
更に庭瀬藩火砲指南役・渡辺信義に火砲術を学ぶ。
・1849年(嘉永2年) 45歳 松山藩の元締役 兼 吟味役元締を命ぜられ、藩政改革に
取り組む。
・1851年(嘉永4年) 47歳 農兵制」(農民による洋式銃隊)を創設。
・1852年(嘉永5年) 48歳 郡奉行に任命される。
・1854年(安政元年) 50歳 元締 兼 藩執政となる。
・1856年(安政3年) 52歳 年寄役助勤、郡奉行も引き続き兼務となる。
・1857年(安政4年) 53歳 松山藩の元締を辞任。この年、板倉勝静、幕府の寺社奉行
となる。
・1860年(万延元年) 56歳 再び藩元締に再任される。
・1861年(文久元年 )57歳
☆2月、江戸で藩主の顧問となる。
☆4月、顧問を辞任し帰国。
☆5月、元締役辞任。
・1862年(文久2年) 58歳 板倉勝静、老中となる。方谷は再び勝静の幕政顧問となるが、
程なく辞任する。
・1863年(文久3年) 59歳 板倉勝静、上京。4月、京都における勝静の顧問に再任され
るが即、辞任。
・1864年(元治元年) 60歳 板倉勝静、長州征伐に出陣、留守を守る。
・1868年(明治元年) 64歳 大政奉還ののち戊辰戦争がおこり、備中松山征討軍に
無血開城。
・1869年(明治2年) 65歳 長瀬の塾舎を増築し子弟教育につとめる。
・1870年(明治3年) 66歳 刑部に住居を移転。引き続き弟子教育につとめる。
・1871年(明治4年) 67歳 再興された閑谷学校(閑谷精舎)で、陽明学の講義をする。
・1877年(明治10年) 73歳 で死去。
主な門人:川井継之助、三島中洲(二松学舎創設者)、川田剛、鎌田平山、進鴻渓、
服部犀渓、林抑斎、三浦仏厳、岡本展岳、福西志計子。
(注) 藩主・板倉勝静は白河藩主松平定信の実の孫で徳川吉宗の玄孫にあたる。
そのため、幕府に対する忠誠心が高く勝静自身も老中として幕府の要職を
務めた。
しかし、幕府の重職を担うことは藩財政の逼迫を招くため、方谷は勝静の幕政
参加に反対していた。
大政奉還、鳥羽伏見の戦いで、老中として大坂城で将軍徳川慶喜の元にいた
勝静は幕府側に就いて官軍と戦うこととなった(戊辰戦争)。これに対して朝廷は
周辺の大名に松山藩を朝敵として討伐するよう命じた。
突然の出来事に対して松山の人々は動揺した。方谷は、主君勝静に従って
官軍と戦うよりも松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主
を立てることと、松山城の開城を朝廷に伝えた。
記録が新聞に掲載されていたので紹介します。
(以下、毎日新聞、2017.9.27付け)
平城宮跡:コアジサシなど希少種飛来 国に配慮要望
国特別史跡で世界遺産の平城宮跡(奈良市)を日本野鳥の会奈良支部が初めて調査
したところ、環境省レッドリストで絶滅危惧2類に指定されているコアジサシなど希少種を
含む野鳥50種以上の飛来が確認された。
平城宮跡は国営歴史公園として整備する工事が進められているが、市街地に残る広大な
緑地が野鳥の楽園と分かり、同支部は生態系などへの配慮を国側に求めている。
平城宮跡では文化庁が2010年、平城遷都1300年祭に合わせて第1次大極殿を建設した。
国土交通省も大極殿前に広場を造るなど、約132ヘクタールを公園区域として開発している。
今後、第1次大極殿の周囲に回廊や南門を復元整備するほか、既にある朱雀門の南東には
展示館を作る計画だ。
元は田畑が広がっていた平城宮跡には、草に覆われた広大な緑地が残り、多くの野鳥が
生息している。
公園化事業で環境が変化する恐れがあることから、同支部は昨年7月から今年6月にかけ
調査した。
会員約20人が毎月1回、午前9時〜正午の3時間、目視や鳴き声で鳥の種類や飛来数を
計測する方法で、52種延べ3960羽を確認した。
カモメ科のコアジサシは、宮跡の南西側で10羽が営巣していることが判明。環境省レッド
リストで準絶滅危惧種とされるヒクイナ3羽を東端と西端で見つけた。このほか、県レッドデータ
ブックで絶滅危惧種とされるクイナやコミミズクも1羽ずつ確認した。
同支部幹事の上山義之さん(74)は「これほど多様な野鳥がいるとは思わなかった。農薬
などの影響で周辺の農地で餌が捕りにくくなり、平城宮跡が相対的に生息しやすい環境になっ
ているのだろう」と話す。
同支部は8月に調査結果を国交省国営飛鳥歴史公園事務所平城分室に提出し、整備に伴う
草刈りの時期など野鳥への配慮を要望。同分室は「野鳥の会からの意見も踏まえて適切に除草
したい」としている。 【伊澤拓也】
とりとめもなく愚痴ります。
どこへ行っても大陽光発電のソーラーパネルが目につきます。規模の差はあるけれど
異常なほど多くのパネルが乱立していて今や取り返しのつかない自然破壊が進行して
いるのではないでしょうか?
一度、切り倒した森林は再生までに時間がかかり荒れた山肌は元には戻りません。
おそらく数年後に使用が終わった設備は撤去されず放置されるものもあるでしょう。設置する
時は撤去に多額の費用が発生することは計算せずエネルギー政策に名をかり、一部の事業
者が潤う構図のような気がします。・・・そのうち、日本中がパネルだらけ・・・・。
再生エネルギー振興策は、東日本大震災と福島原発事故の混乱の中で決まった優遇策です。
原発の代替策としてその拡大を推奨したので環境破壊は無視されたのだと思います。
いずれ耕作を放棄した遊休地や野池はパネルで覆われるでしょう。
実はこんなことを書いたのはいつも野鳥を観察し楽しんでいた池が急でソーラー工事が始まっ
たからです。
池は民有地なので仕方無いかも知れませんが毎年、セイタカシギが繁殖していてこの時期は
アオアシシギ、ツルシギ等のシギチドリが観察できました。
先日、友人がヘラサギが飛んできたので観察していたら池にユンボは入ってきたそうです。
毎日、池で観察していた人も工事が実施されることを知らずビックリです。
行政の認可もおりていて止めるのは難しい状況です。あたり一面がパネル畑になり渡り鳥達
の安息地も無くなります。悲しいことです。地元の人が何とかならないかと立ち上がっていますが
状況は難しいようです。 (三重の曽原大池<通称ボラ池>の出来事です。)
このやるせない気持ちをぶつけるところがないのでブログで愚痴をこぼしました。
Nさん撮影。
Stamp ラリーがあります。
10個集めると記念バッチ1個、全部(19個)集めるとバッチ2個プレゼント。。。

展示作業中で未完成ですが作品の一部を紹介します。
精華大学の学生さんの水瓶作品です。指導されている宮永先生は展示にかなりこだわり
荒れた池の掃除を数日掛け実施されました。水瓶にカワセミが止まります。(大里公園)

宮永先生が指導された楢木野さんの作品です。(土師山公園)

かなり重いので持ち運びや倒れないよう支柱を地面に打ち込むのが大変そうでした。

京都教育大学卒の梅原さんの作品です。作品の一部を焼き上げるのに近所の公園に
窯を据え数日、寝泊まりして仕上げました。(二条丸八)



土師山公園に展示している木の造形。向山さんの作品です。


中島さんの作品です。(土師山公園)

千葉県から来られた中村さんの作品。かなり大きな作品ですが軽自動車に積み込んで
持参し数日掛け組み立てたとか。
江戸時代に木津川を行き来していた船をイメージしたそうです。(きんでん)

大津市在住の井上さんの作品です。お孫さんが木津川市で生まれた縁で出品されたとか。
木の作品にように見えるけど全て紙で制作しています。(相楽神社)


千葉県から来られた小山さんの作品です。木津川の流れをイメージしているそうです。
(兜台公園)

大阪の小杉さんの作品です。夜、見るとギョッとするかも。 (線路沿遊歩道、大里会館分館付近)



建設に反対する会)が立ち上がり署名活動を始めています。
下記を参照ください。
「若草山へのモノレール建設に反対する会」HP: http://wakakusayama.jugem.jp/
野鳥の会奈良支部もこの署名活動に協力することになりました。
署名用紙は上記のホームページにあります。賛同いただける方はご協力ください。
以下、朝日新聞24.1.25抜粋。
山焼きで知られる若草山にモノレールを走らせる構想がある。減り続ける観光客に足を向けて
もらう狙いで、地元商店主らは歓迎。だが一帯は世界遺産に指定されており、ユネスコの諮問
機関「イコモス」の国内組織が強い懸念を表明する異例の事態になっている。
若草山は夜景の名所でもある。ただ、東大寺大仏殿などを眼下に眺められる中腹の「一重目」
へは、高低差約100メートルの急な石段を登らなければならない。
年間の入山者数は約12万人(2012年)と、ピークだった30年前の4分の1に減少。県は巻き
返し策として、斜面用の小型モノレール導入を検討している。
計画案では、山焼きに影響がない南側の春日山原始林との境界付近を通る登山道沿いにレー
ルを通し、6人乗りの車両を2両連結。ふもとから一重目までの約550メートルを約20分で登る。
若草山では1922年にケーブルカーを設置する計画が持ち上がったが、自然保護を理由に頓挫。
その後トンネルを掘ってエスカレーターを通す計画もあったが、実現しなかった。商店主らで作る
奈良若草山観光振興会の清水宗和会長(63)は「地元の悲願。移動手段があるだけで集客効果
は大きく、夜景も楽しんでもらえる」と期待する。
奈良県の新井知事も「いい場所の観光をしやすくするのは観光政策の基本」と話し、昨年末の
県議会ではユネスコの世界遺産委員会報告も必要ないとの見方を示した。
これに異を唱えたのが世界遺産候補を調査する文化財保存の専門家集団「国際記念物遺跡
会議(イコモス)」の国内組織、日本イコモス国内委員会だ。
「世界遺産として設定された地区の保護を軽視しており、文化遺産を破壊することに等しい」とする
文書を県に送付。国内は例がないが、世界遺産からの抹消が議論される危機遺産リストに登録され
る恐れもあるとして、矢野和之事務局長は「県は真摯(しんし)に受け止めて欲しい」と話す。
学識経験者らは計画に反対する会を立ち上げ反対署名運動を始めている。
9月20日に大極殿前の舗道工事が発表され25日から即工事開始、来年3月に完了します。
大極殿へ行くのに不便と言うことですが広すぎる工事です。
意味不明の工事をなぜ性急にするのでしょう?
文化財への影響もさることながら近隣の鳥たちへも影響もあるでしょう。
そのうち、黙ってツバメの塒場所、アリスイ畑も埋めちゃうのでは?
反対運動が始まっているけど・・・・。
下記を参照ください。
http://narapress.jp/hjk/
数年前に読んだ本が映画になりました。
映画のシーンが友人と重なってほくそ笑んでいたら偶然映画館で会ったその一人がまるで
自分みたいとつぶやいておりましたぞ。・・私は違いますよ。



原題: The Big Year。 上映時間: 1時間 40分。 ジャンル: コメディ・ドラマ 。
【制作】
マーク・オブマシックの原作「ザ・ビッグイヤー 世界最大のバードウォッチング
競技会に挑む男と鳥の狂詩曲」を「ブラダを着た悪魔」のデヴィッド・フランケル監督が映画化。
【ストーリー】
熱狂的な 3人のバードウォッチャーはアメリカ探鳥協会主催の記録会に
毎年出場しているが、 1998年はエルニーニョによる異常気象により、
北米で見られない野鳥が次々と観測される。
彼らは初めて見る野鳥に魅了され、大会を忘れて野鳥の観測に没頭する...
【スタッフ・キャスト】
[監督]デヴィッド・フランケル [出演]ジャック・ブラック/オーエン・ウィルソン/
スティーヴ・マーティン/ラシダ・ジョーンズ/アンジェリカ・ヒューストン
tai_kana98