幕末、郷里の岡山に素晴らしい人物がいました。今の時代にこのような指導者がいたら
  日本も変わったでしょう。
 
 「山田方谷」  <出典:ウィキペディア>
山田方谷

  江戸時代。
  山田方谷は備中松山藩領で生まれ、京都で陽明学を学びました。  
  方谷は松山藩の財政の建て直しに貢献し、幕末の混乱期には苦渋の決断により藩を滅亡
 から回避させることに成功しました。明治維新後は多くの招聘をすべて断り、一民間教育者
 として生涯を送りました。

 松山藩の藩政改革

    
方谷は自らが説く「理財論」および「擬対策」を実践して藩政改革を成功させました。
  理財論
は方谷の経済論で漢の時代の董中舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」
 の考え方に基づいています。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、
 その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげ
 られない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつ
 けていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなると言う説です。
    擬態策
は方谷の政治論で天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢を
 すれば、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることと説いています。

  この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行いました。

1.
藩財政を内外に公開して、藩の実収入が年間1万9千石
   にしかならないことを明らかにし債務の50年返済延期を
     行った。(改革の成功で数年後には完済した。)
2. 大阪の蔵屋敷
を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米会
      所
の動向に左右されずに最も有利な市場で米や特産
  品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米に
  あてました。
3.   家臣
に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの
   生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受け
   る事を禁じて発覚した場合には没収しました。
   方谷自身の家計も率先して公開して賄賂を受けていない
     ことを明らかにしました。
4.
多額の発行によって信用を失った藩札を
回収し、公衆
     の面前で焼き捨てました。代わりに新しい藩札を発行し
  て藩に兌換
を義務付けました。これによって藩札の流通
  数が大幅に減少するとともに信用度が増して他国の商人
  や資金も松山藩に流れるようになりました。
5.
領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコ、
  茶、和紙、柚餅子
などの特産品を開発して「撫育局」を
  設置して専売制
を導入しました。他藩の専売制とは逆に
  生産者の利益を重視し、藩は後述の流通上の工夫によ
  って利益が上げるようにしました。
6.
特産品を、中間手数料がかかる大坂を避け、藩所有の
     艦船
で直接江戸へ運び、藩邸の施設内で江戸や関東、
     近辺の
商人に直接販売しました。これによって、中間利
  益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに
  航海術を学ばせました。
7.
藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民
     や町人出身でも藩士へ取立てました。
8. 桑や竹な
どの役に立つ植物
を庭に植えさせ、更に道路
     や河川・港湾などの公共工事を興し、貧しい領民を従事
   させて現金収入を与えました。また、これによって交通
     の安全や農業用水の灌漑も充実されました。
9. 目安箱
を設置して、領民の提案を広く聞きました。
10.  犯罪
取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社
      会復帰を助けました。
11.
 下級武士に対して屯田制
を導入し、農地開発と並行し
      て国境等の警備に当たらせました。
12.
 「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を
      導入し
若手藩士と農民からの志願者による英国式軍隊を
      整えました。 この軍制は長州藩の奇兵隊等の
模範になり
   ました。

     
方谷は反対意見を受けたもののあくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全
       体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段
       であるとして、この批判を一顧だにしなかった。(方谷は松山藩の執政の期間には加増を
   辞退し、むしろ自分の財産を減らしている)。
         これによって、松山藩(表高5万石)の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、
       農村においても生活に困窮する者はいなくなったという。
   他藩にはない大規模な藩政改革を行い、後の長州藩等の手本になるものもあり、
   当時としては画期的な政策であった。

    方谷は藩政改革を成功させた後、
池田光政が設立した閑谷学校(日本最古の庶民学校)
   を陽明学を教える閑谷精舎として再興しました。
   ・明治新政府は方谷の財政改革を高く評価して、三島中洲らを通じて出仕を求めたが、
         領民達を救うためとはいえ、心ならずも主君を隠居に追い込んで勝手に降伏した
   (注:参照)方谷に再仕官をする考えはなく、弟子の育成に生涯を捧げました。
   ・方谷の教えは三島中州の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることに
         なった。他人を小人呼ばわりした三島中州に「世に小人無し。一切衆生みな愛すべし。」
         と戒めたと言われています。
   ・安岡正篤は、この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚えると評価しています。
   ・学舎の隣家に住む一藩士が病没し、その妻が方谷宅の門を叩き父を亡くした7歳の
    娘に母子家庭の娘と侮られぬよう、学問を教えて欲しいと願うと引き受けて男女の
    別を気にする事無く、その才気ある娘を学舎に通わせ自ら教えました。
    その娘は後に高梁で女子教育の普及を広めた福西志計子です。

 年表

      ・1805年(文化2年4) 備中松山藩領西方村で生まれる。
  ・1809年(文化6年) 5歳 新見藩の丸山松隠(儒家)塾で朱子学を学ぶ。
  ・1825年(文化8年) 21歳 名声が広まり藩主・板倉勝職から奨学金 (二人扶持)
                       いただく。
  ・1827年(文政10年)23歳 第1回京都遊学で寺島白鹿に学ぶ。
  ・1829年(文政12年)25歳 第2回京都遊学で寺島白鹿に学ぶ。遊学から戻り、
                                  主から苗字帯刀を許される。藩校・有終館会頭(教授)に
                                    抜擢される。
  ・1831年(天保2年) 27歳 第3回目の京都遊学で寺島白鹿に再度、学ぶ。
             このとき、陽明学に出会う。
  ・1834年(天保5年)  30歳 江戸遊学(1月から2年半)で佐藤一斉の門下に入る。
                       このとき、佐久間象山と出会う。
  ・1836年(天保7年)  32歳 有終館に戻り指導する。「理財論」「擬対策」を書く。
  ・1838年(天保9年)  34歳 家塾「牛麓舎」を開校する。
  ・1844年(弘化元年) 40歳 世子の板倉勝静に入封する。
  ・1847年(弘化4年)  43歳 津山藩洋式砲術役・天野直人に砲術を学ぶ。
              更に庭瀬藩火砲指南役・渡辺信義に火砲術を学ぶ。
  ・1849年(嘉永2年) 45歳 松山藩の元締役 兼 吟味役元締を命ぜられ、藩政改革に
                          取り組む。
  ・1851年(嘉永4年)  47歳  農兵制」(農民による洋式銃隊)を創設。
  ・1852年(嘉永5年)  48歳 郡奉行に任命される。
  ・1854年(安政元年) 50歳 元締 兼 藩執政となる。
  ・1856年(安政3年)  52歳 年寄役助勤、郡奉行も引き続き兼務となる。
     ・1857年(安政4年) 53歳 松山藩の元締を辞任。この年、板倉勝静、幕府の寺社奉行
                       となる。
  ・1860年(万延元年) 56歳 再び藩元締に再任される。
  ・1861年(文久元年 )57歳
               ☆2月、江戸で藩主の顧問となる。
               ☆4月、顧問を辞任し帰国。
               ☆5月、元締役辞任。
  ・1862年(文久2年) 58歳 板倉勝静、老中となる。方谷は再び勝静の幕政顧問となるが、
                         程なく辞任する。
  ・1863年(文久3年)  59歳 板倉勝静、上京。4月、京都における勝静の顧問に再任され
                         るが即、辞任。
  ・1864年(元治元年) 60歳 板倉勝静、長州征伐に出陣、留守を守る。
  ・1868年(明治元年) 64歳  大政奉還ののち戊辰戦争がおこり、備中松山征討軍に
               無血開城。
  ・1869年(明治2年) 65歳 長瀬の塾舎を増築し子弟教育につとめる。
  ・1870年(明治3年) 66歳 刑部に住居を移転。引き続き弟子教育につとめる。
  ・1871年(明治4年) 67歳 再興された閑谷学校(閑谷精舎)で、陽明学の講義をする。 
  ・1877年(明治10年) 73歳 で死去。

  主な門人:川井継之助、三島中洲(二松学舎創設者)、川田剛、鎌田平山、進鴻渓、
         服部犀渓、林抑斎、三浦仏厳、岡本展岳、福西志計子。

  (注) 藩主・板倉勝静は白河藩主松平定信の実の孫で徳川吉宗の玄孫にあたる。
     そのため、幕府に対する忠誠心が高く勝静自身も老中として幕府の要職を
     務めた。
      しかし、幕府の重職を担うことは藩財政の逼迫を招くため、方谷は勝静の幕政
     参加に反対していた。
      大政奉還、鳥羽伏見の戦いで、老中として大坂城で将軍徳川慶喜の元にいた
     勝静は幕府側に就いて官軍と戦うこととなった(戊辰戦争)。これに対して朝廷は
     周辺の大名に松山藩を朝敵として討伐するよう命じた。
      突然の出来事に対して松山の人々は動揺した。方谷は、主君勝静に従って
     官軍と戦うよりも松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主
     を立てることと、松山城の開城を朝廷に伝えた。