☆☆たいかな日記☆☆

きまぐれブログへようこそ。♪♪自然の中で鳥との出会いを求め、近隣、時にはミニ遠征を続けています。♬♬

October 2015

シギチ(10)。。

休耕田の貴婦人。

セイタカシギ(背高鷸、Black-winged Stilt) L:37 
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シギチ(9)。。

朝の陽射しがきつい海岸に佇むダイゼン。

ダイゼン(大膳、Grey Plver)L:29
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シギチ(8)。。

グリーンの川面が綺麗です。

イソシギ(磯鷸、Common Sandpiper)L:20
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シギチ(7)。。

どこへ行っても出会いました。本土では貴重です。

ヒバリシギ(雲雀鷸、Long-toed Stint) L:14.5
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シギチ(6)。。

耕した畑にかなりの数のムナグロがいました。

ムナグロ(胸黒、Pacific Golden Plover) L:24
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シギチ(5)。。

休耕田に数羽いました。

タカブシギ(鷹斑鷸、Wood Sandpiper) L:20
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シギチ(4)。。

沖縄まで来て撮らなくてもと思いながらも・・・・。

タシギ(田鷸、Common Snipe)L:27
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シギチ(3)。。

空港近くの池に数羽、滞在していました。皆さんが必ず立ち寄る場所です。

エリマキシギ(襟巻シギ、Ruff) L:♂28、♀22
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シギチ(2)。。

本土では貴重な鳥ですが沖縄では普通に見つかりました。

アカアシシギ(赤足鷸、Common Redshank)L:27.5
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シギチ(1)。。

 今回の沖縄遠征は時期が早かったのか大きな成果は無く写真の整理も延び延びに
なっています。
 そうは言っても遠征の記録は必要かと思いシギチ写真をピックアップしましたので2日間に分け
掲載します。

 
 陽射しが強く白飛びしました。

アオアシシギ(青足鷸、Common Greenshank) L35
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賑やかさん。。

この地へ来るとどこでも会えます。うるさいほど大きな声で囀っていました。

シロガシラ(白頭、Ligth-vented Bulbul) L:18-19 @沖縄
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仲良し燕。。

本土のツバメ(L:17)より少し小さいツバメです。

リュウキュウツバメ(琉球燕、Pacific Swallow) L:14 @沖縄
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目白。。

少し色が濃いかな。亜種リュウキュウメジロです。

亜種リュウキュウメジロ(目白、Japanese White-eye) L:12 @沖縄。
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飛んで来た。。

 青空から舞い下りてきたので双眼鏡で観察するとマガンでした。近隣では珍鳥です。
1時間半ほど、とどまり南西方面へ飛んで行きました。

マガン(真雁、Greater White-fronted Goose) L:72
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鷺。。

久しぶりの遠征です。白い子がいないかと探しましたが・・・。

クロサギ(黒鷺、Pacific Reef Heron) L:62
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白色型。@在庫。
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バリケン。。

南米産のノバリケンを家禽化したものです。近年、各地で逃げ出したものが見られます。

バリケン。
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葉隠擬態。。

初めて見たコノハチョウです。暗い所にいました。

コノハチョウ(木の葉蝶) @沖縄。
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白帯。。

 シロオビアゲハの和名は後翅に白い斑点が列を成していて、翅を縦断する白い帯模様を
形成することに由来する。インドから東南アジアの熱帯域に分布し、日本ではトカラ列島以南の
南西諸島に分布。沖縄地方では普通に見られ、八重山諸島では通年、奄美群島でも2月中旬 ~
11月下旬に見られます。ハイビスカスなどの花に訪花し、荒地や林などにもいます。
 幼虫はシークワーサーやサルカケミカンなどを食草にするので嫌われものです。
 
 シロオビアゲハ(白帯揚羽)。成虫は前翅長50mm前後、開張約7 - 8cmほど。@沖縄
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ジョウビ。。

御陵に♂が二羽。縄張り争いをしています。

ジョウビタキ(尉鶲、常鶲、Daurian Redstart)L:14   
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ハシブト。。

本土のハシブトガラスより一回り小さいけどハシブトガラスです。

亜種リュウキュウハシブトガラス(琉球嘴太烏) L:42。 @沖縄。 
<ハシブトガラス(嘴太鴉、large-billed Crow) L:57>
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ハマナス。。

ハマナスの花が数輪咲いていた海辺で威風堂々、突っ立ていたイソヒヨドリ。

イソヒヨドリ(磯鵯、Blue Rock Thrush) L:23-25.5
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山の上で。。

 早々とやってきました。
 北の方が天候不順で餌の実が少ないのでしょうか。

アトリ(花鶏、Brambling)L:16
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御陵で。。

御陵の上空を舞うツミ♀。ここでは珍しい。渡り途中でしょうね。

ツミ(雀鷹、Japanese Sparrowhawk) L:♂27、♀30、W:51-63
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べっ甲色。。

羽根がべっ甲模様のチョウトンボで以前はベッコウチョウトンボと言われていたようです。
南西諸島の徳之島以南に分布しています。

オキナワチョウトンボ(沖縄蝶蜻蛉) 体長:40
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沖縄の蜻蛉。。

初めて見る蜻蛉ばかりです。

腹部が細いトンボです。黄緑色の腹部に黒い条があるのが特徴。主に平地や丘陵地の
植物が繁った池、沼、水田に生息しています。

ハラボソトンボ(腹細蜻蛉)。体長:52 @沖縄
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ヒメトンボ(姫蜻蛉)。体長:♂、26-35、♀28-35。
ハッチョウトンボに次いで小さい蜻蛉。屋久島以南の南西諸島に生息。
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水飲み場(4)。。

水飲み場のお客さん、その(4)です。

サメビタキ(鮫鶲、Dark-sided Flycatcher) L:14
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水飲み場(3)。。

この子もやってきました。

エゾビタキ(蝦夷鶲、Grey-Streaked Flycatcher) L:14.5-15
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水飲み場(2)。。

ヤマガラも水浴びにやってきました。

ヤマガラ(山雀、Varied Tit ) L:14
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水飲み場(1)。。

天気が良く喉が渇くのでしょう。キビタキが水飲み場にやってきました。

キビタキ(黄鶲、Narcissus Flycatcher)L:13.5  @日曜日の撮影です。
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草花3種。。

今季は沢山見ます。草花がらみで撮りました。

ノビタキ(野鶲、Common Stonechat) L:13
ヒレタゴボウ。
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フジバカマ。
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セイタカアワダチソウ。
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都市公園の池。。

見易いところにいると聞き見て来ました。幼鳥は警戒心が薄いので近くで撮れます。

ヨシゴイ(葭五位、Yellow Bittern) L:36
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一羽寂しく。。

 小さな公園でぼんやり座っていたらエゾビタキが飛んできました。
 桜の葉もほとんど落ちて好物の虫も少なく餌探しは大変そう。

 蝦夷から渡って来るから蝦夷鶲・・・夏季にシベリア南部、サハリン、カムチャッカ半島で繁殖し、
冬季はフィリピン方面へ渡っていきます。日本では秋に多く見れる極、普通の渡り鳥です。  
 
エゾビタキ(蝦夷鶲、Grey-Streaked Flycatcher) L:14.5-15
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若ルリ。。

御陵の小道で急に前を横切ったので何かと思い見ると若いオオルリでした。

オオルリ(大瑠璃、Blue-and-white Flycatcher) L:16-16.5
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旧跡の瓦屋根に。。

今季も楽しませてくれるのでしょうか?旧跡にやってきたチョウゲンボウです。
芝刈りが終わった草地でバッタを捕っていました。

チョウゲンボウ(長元坊、Common Kestrel)L:♂33、♀39
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早くも里に。。

一年が経つのは早いです。ついこの前見たと思ったのにもうやってきました。
この冬も楽しめそうです。この場所に二羽いました。

アリスイ(蟻吸、Eurasian Wryneck) L:18
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チャマちゃん。。

10月2日~6日まで蕎麦畑に2羽滞在しました。その後11日に隣県で1羽見つかりました。
おそらく同じ個体だと思います。

久しぶりなので見に行ったけど近くには寄ってきません。

アカマシコ(赤猿子、CommonRosefinch) L:14
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妖艶な色。。

ショックングピンクの妖艶な雰囲気の南方系のトンボです。

 南方系の種で、台湾以南の中国中南部や、東南アジアなどに分布している。日本では1954年に
鹿児島県で初めて発見されたが、1980年以降沖縄本島や鹿児島県以外の九州各地でも記録され
るようになった。また2000年代以降になって、高知県や徳島県など四国の各地からも記録されるよ
うになり、日本におけるベニトンボの生息域が北上していることが明らかとなった。
 この分布域の北上については地球温暖化などが原因として考えられている。(wikipediaより)

ベニトンボ(紅蜻蛉) 体長:40。 @沖縄。
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一区切り。。

 友人が木を拾ってきて作ってくれました。

 昨年の8月の初めから、毎日アップしてきましたが、これからは気の向くまま更新します。
引き続き、訪問お願いいたします。
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ふるさとの偉人。。

  幕末、郷里の岡山に素晴らしい人物がいました。今の時代にこのような指導者がいたら
  日本も変わったでしょう。
 
 「山田方谷」  <出典:ウィキペディア>
山田方谷

  江戸時代。
  山田方谷は備中松山藩領で生まれ、京都で陽明学を学びました。  
  方谷は松山藩の財政の建て直しに貢献し、幕末の混乱期には苦渋の決断により藩を滅亡
 から回避させることに成功しました。明治維新後は多くの招聘をすべて断り、一民間教育者
 として生涯を送りました。

 松山藩の藩政改革

    
方谷は自らが説く「理財論」および「擬対策」を実践して藩政改革を成功させました。
  理財論
は方谷の経済論で漢の時代の董中舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」
 の考え方に基づいています。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、
 その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげ
 られない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつ
 けていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなると言う説です。
    擬態策
は方谷の政治論で天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢を
 すれば、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることと説いています。

  この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行いました。

1.
藩財政を内外に公開して、藩の実収入が年間1万9千石
   にしかならないことを明らかにし債務の50年返済延期を
     行った。(改革の成功で数年後には完済した。)
2. 大阪の蔵屋敷
を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米会
      所
の動向に左右されずに最も有利な市場で米や特産
  品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米に
  あてました。
3.   家臣
に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの
   生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受け
   る事を禁じて発覚した場合には没収しました。
   方谷自身の家計も率先して公開して賄賂を受けていない
     ことを明らかにしました。
4.
多額の発行によって信用を失った藩札を
回収し、公衆
     の面前で焼き捨てました。代わりに新しい藩札を発行し
  て藩に兌換
を義務付けました。これによって藩札の流通
  数が大幅に減少するとともに信用度が増して他国の商人
  や資金も松山藩に流れるようになりました。
5.
領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコ、
  茶、和紙、柚餅子
などの特産品を開発して「撫育局」を
  設置して専売制
を導入しました。他藩の専売制とは逆に
  生産者の利益を重視し、藩は後述の流通上の工夫によ
  って利益が上げるようにしました。
6.
特産品を、中間手数料がかかる大坂を避け、藩所有の
     艦船
で直接江戸へ運び、藩邸の施設内で江戸や関東、
     近辺の
商人に直接販売しました。これによって、中間利
  益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに
  航海術を学ばせました。
7.
藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民
     や町人出身でも藩士へ取立てました。
8. 桑や竹な
どの役に立つ植物
を庭に植えさせ、更に道路
     や河川・港湾などの公共工事を興し、貧しい領民を従事
   させて現金収入を与えました。また、これによって交通
     の安全や農業用水の灌漑も充実されました。
9. 目安箱
を設置して、領民の提案を広く聞きました。
10.  犯罪
取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社
      会復帰を助けました。
11.
 下級武士に対して屯田制
を導入し、農地開発と並行し
      て国境等の警備に当たらせました。
12.
 「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を
      導入し
若手藩士と農民からの志願者による英国式軍隊を
      整えました。 この軍制は長州藩の奇兵隊等の
模範になり
   ました。

     
方谷は反対意見を受けたもののあくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全
       体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段
       であるとして、この批判を一顧だにしなかった。(方谷は松山藩の執政の期間には加増を
   辞退し、むしろ自分の財産を減らしている)。
         これによって、松山藩(表高5万石)の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、
       農村においても生活に困窮する者はいなくなったという。
   他藩にはない大規模な藩政改革を行い、後の長州藩等の手本になるものもあり、
   当時としては画期的な政策であった。

    方谷は藩政改革を成功させた後、
池田光政が設立した閑谷学校(日本最古の庶民学校)
   を陽明学を教える閑谷精舎として再興しました。
   ・明治新政府は方谷の財政改革を高く評価して、三島中洲らを通じて出仕を求めたが、
         領民達を救うためとはいえ、心ならずも主君を隠居に追い込んで勝手に降伏した
   (注:参照)方谷に再仕官をする考えはなく、弟子の育成に生涯を捧げました。
   ・方谷の教えは三島中州の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることに
         なった。他人を小人呼ばわりした三島中州に「世に小人無し。一切衆生みな愛すべし。」
         と戒めたと言われています。
   ・安岡正篤は、この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚えると評価しています。
   ・学舎の隣家に住む一藩士が病没し、その妻が方谷宅の門を叩き父を亡くした7歳の
    娘に母子家庭の娘と侮られぬよう、学問を教えて欲しいと願うと引き受けて男女の
    別を気にする事無く、その才気ある娘を学舎に通わせ自ら教えました。
    その娘は後に高梁で女子教育の普及を広めた福西志計子です。

 年表

      ・1805年(文化2年4) 備中松山藩領西方村で生まれる。
  ・1809年(文化6年) 5歳 新見藩の丸山松隠(儒家)塾で朱子学を学ぶ。
  ・1825年(文化8年) 21歳 名声が広まり藩主・板倉勝職から奨学金 (二人扶持)
                       いただく。
  ・1827年(文政10年)23歳 第1回京都遊学で寺島白鹿に学ぶ。
  ・1829年(文政12年)25歳 第2回京都遊学で寺島白鹿に学ぶ。遊学から戻り、
                                  主から苗字帯刀を許される。藩校・有終館会頭(教授)に
                                    抜擢される。
  ・1831年(天保2年) 27歳 第3回目の京都遊学で寺島白鹿に再度、学ぶ。
             このとき、陽明学に出会う。
  ・1834年(天保5年)  30歳 江戸遊学(1月から2年半)で佐藤一斉の門下に入る。
                       このとき、佐久間象山と出会う。
  ・1836年(天保7年)  32歳 有終館に戻り指導する。「理財論」「擬対策」を書く。
  ・1838年(天保9年)  34歳 家塾「牛麓舎」を開校する。
  ・1844年(弘化元年) 40歳 世子の板倉勝静に入封する。
  ・1847年(弘化4年)  43歳 津山藩洋式砲術役・天野直人に砲術を学ぶ。
              更に庭瀬藩火砲指南役・渡辺信義に火砲術を学ぶ。
  ・1849年(嘉永2年) 45歳 松山藩の元締役 兼 吟味役元締を命ぜられ、藩政改革に
                          取り組む。
  ・1851年(嘉永4年)  47歳  農兵制」(農民による洋式銃隊)を創設。
  ・1852年(嘉永5年)  48歳 郡奉行に任命される。
  ・1854年(安政元年) 50歳 元締 兼 藩執政となる。
  ・1856年(安政3年)  52歳 年寄役助勤、郡奉行も引き続き兼務となる。
     ・1857年(安政4年) 53歳 松山藩の元締を辞任。この年、板倉勝静、幕府の寺社奉行
                       となる。
  ・1860年(万延元年) 56歳 再び藩元締に再任される。
  ・1861年(文久元年 )57歳
               ☆2月、江戸で藩主の顧問となる。
               ☆4月、顧問を辞任し帰国。
               ☆5月、元締役辞任。
  ・1862年(文久2年) 58歳 板倉勝静、老中となる。方谷は再び勝静の幕政顧問となるが、
                         程なく辞任する。
  ・1863年(文久3年)  59歳 板倉勝静、上京。4月、京都における勝静の顧問に再任され
                         るが即、辞任。
  ・1864年(元治元年) 60歳 板倉勝静、長州征伐に出陣、留守を守る。
  ・1868年(明治元年) 64歳  大政奉還ののち戊辰戦争がおこり、備中松山征討軍に
               無血開城。
  ・1869年(明治2年) 65歳 長瀬の塾舎を増築し子弟教育につとめる。
  ・1870年(明治3年) 66歳 刑部に住居を移転。引き続き弟子教育につとめる。
  ・1871年(明治4年) 67歳 再興された閑谷学校(閑谷精舎)で、陽明学の講義をする。 
  ・1877年(明治10年) 73歳 で死去。

  主な門人:川井継之助、三島中洲(二松学舎創設者)、川田剛、鎌田平山、進鴻渓、
         服部犀渓、林抑斎、三浦仏厳、岡本展岳、福西志計子。

  (注) 藩主・板倉勝静は白河藩主松平定信の実の孫で徳川吉宗の玄孫にあたる。
     そのため、幕府に対する忠誠心が高く勝静自身も老中として幕府の要職を
     務めた。
      しかし、幕府の重職を担うことは藩財政の逼迫を招くため、方谷は勝静の幕政
     参加に反対していた。
      大政奉還、鳥羽伏見の戦いで、老中として大坂城で将軍徳川慶喜の元にいた
     勝静は幕府側に就いて官軍と戦うこととなった(戊辰戦争)。これに対して朝廷は
     周辺の大名に松山藩を朝敵として討伐するよう命じた。
      突然の出来事に対して松山の人々は動揺した。方谷は、主君勝静に従って
     官軍と戦うよりも松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主
     を立てることと、松山城の開城を朝廷に伝えた。

強風の山。。

 鷹の渡りを見に行ったけど強風と寒さで震えました。目的の鷹は少なく手持無沙汰でした。

 鳥の観察を始めた頃から度々行った懐かしい場所です。近くにあった国民宿舎は閉鎖され
ていました。
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一服中。。

 少し小さいと思いながらも疑いもせず撮りましたが別属のようです。蝶に詳しい友人から「普通の
アサギマダラではないよ。」と指摘がありました。

  『 南国らしい翅を持つチョウで「アサギマダラ」と名が付くが、アサギマダラ属のアサギマダラ
   とは別属。アサギマダラより一回り小さく、前翅と後翅で地色が同じであることで区別可能。
   また、翅の模様も細かい。

    食草のガガイモ科植物に含まれるアルカロイドを体内に持ったまま成虫になるので食べて
   も苦く鳥は食べない。花に来ることが多く、タチアワユキセンダングサなどで吸蜜する。
    アサギマダラ亜科に属する蝶は、日本ではアサギマダラを除き南西諸島にしかいない。
    インド、スリランカ、ミャンマー、マレーシア、中国南部、台湾、南西諸島に生息し、移動性は
   なく、奄美大島より北では迷蝶。 (以上wikipediaより)』

リュキュウアサギマダラ(琉球浅葱斑) @沖縄
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ふるさと紹介。。

 高校時代に過ごした故郷です。学校のグランドが校舎より高い所にありその上が臥牛山。
山頂に備中松山城があります。
 学生時代に夜明け前から山へ登り、眼下に広がる雲海を眺めました。時には猿に追いかけら
れ恐い思いをしたこともありました。
 朝靄に包まれたお城は幻想的な天空の城です。

 今月、同窓会を京都・嵐山で行います。故郷を思い出し掲載しました。

 現在のお城の状況です。(You Tubeから。)


 
備中松山城は岡山県高梁市内山下にある山城です。城跡は江戸時代に建造され
天守、二重櫓などは国の重要文化財に指定されています。
 お城は標高430メートルの臥牛山山頂にあり、現存天守を持つ山城としては最も高い
所にあります。
天守閣(重要文化財)
天守(重要文化財)
三の平櫓東土塀(重要文化財)
三の平櫓東土塀(重要文化財)
二重櫓(重要文化財)
二重櫓(重要文化財)
三の平櫓東土塀(重要文化財)
石垣群


 1240年、秋葉三郎重信が最初の城を築きその後、1331年頃、高橋宗康が小松山まで
 城を拡張した。

 城主は時代と共に変換し、戦国時代に大松山・小松山を範囲とする一大城塞となりました。
 
 1642年(寛永19年)に水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗が天守建造などの修築を行い、
 城は現在の姿となりました。しかし、3代勝美は嗣子がなく1693年(元禄6年)10月に死去。
 その養子となった勝晴はわずか1か月後の同年11月に13歳で早世し水谷家は断絶しました。

 水谷家断絶後は赤穂藩士(浅野長矩)が城を受取り家老大石良雄が城番となりました。
 
 1744年(延享元年)板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続きました。

 (説明はネットを参照しました。)
 

近所で蝶を。。

朝の散歩で見つけた極、普通の蝶です。

ツバメシジミ(燕小灰蝶) 前翅長:9~19F00A1814

入れ替わり。。

第何陣か分かりませんが近所にいた移動中のノビタキです。
先日いた子は2日で消えました。

ノビタキ(野鶲、Common Stonechat) L:13
F00A6668
F00A5892
F00A5966

秋晴れ。。

天気が良いので近所の田んぼを見まわりました。また、また雪加です。

セッカ(雪加、雪下、Zittng Cisitiscla)L:13
F00A5816
F00A5853
F00A5854
F00A5868

豊作。。

  今年は長雨で松茸が豊作のようです。例年、この時期は実家へ行きますが所用で
動けません。
 諦めて数年前、収穫した時の写真で我慢します。
IMG_0112松茸

反嘴(2)。。

大きい方です。
海岸は漂着したゴミが散乱していました。これでもゴミの少ない場所です。

オオソリハシシギ(大反嘴鷸、Bar-tailed Godwit) L:39
F00A3816

反嘴(1)。。

小さい方です。波打ち際で波がよせるたびに後ろに下がり採餌していました。

ソリハシシギ(反嘴鷸、Terek Sandpiper) L:23
F00A4115

群れ。。

岩場にダイゼンの群れがいました。

 平安時代に宮中ではダイゼンを美味とかで食用に用いていました。食事を司る所を
大膳職(ダイゼンシキ)と言っていて名前の由来はそれに基づいたようです。
 当初、ダイゼンシギと言っていましたがダイゼンはシギではなくチドリの仲間なのでシギ
の字を取ったそうです。

ダイゼン(大膳、Grey Plver)L:29
F00A3495
F00A3473

可憐な花。。

  可憐な花が咲く水生植物ガガブタです。この池に猫の額ほどが残っています。以前は池全体が
覆われていたそうですが減ったようです。絶滅するのでしょうか。

 名前の由来は、ガガ→鏡、ブタ→蓋で鏡の蓋とか。
 池や沼に生える多年草の水生植物で近年、開発等の環境変化で準絶滅危惧種(NT)に
指定されています。
 花の大きさは1.5cmほどで5個の花弁に白い髭状の毛が密集していて中心部は黄色の
雄しべ、雌しべのある両性花です。葉は10~20cm程になり水上に花を咲かせ、夕方には
萎みます。水中の泥の中に無数の根を張っています。

ガガブタ(鏡蓋)。
F00A4706
F00A3826
F00A3874
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